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  • 執筆者の写真Tsune N

#00 両親について

私の性格形成に大きな影響を与えた両親のことから書き始めたい。


父は戦後まもなく静岡県熱海市でわさび農家を営む祖父母のもとに、姉二人兄一人の末っ子として生まれた。人に甘えるのがうまくて腕っ節も強いやんちゃな少年だったらしい。大学進学率がまだ低かった時代に、教育熱心だった祖父母の方針に沿い父は神奈川の大学に進む。彼の兄と同居した東京と学校のある神奈川という都会での新鮮で刺激に溢れた暮らしと、仲間達と面白おかしく過ごし充実した時間が父にとっての大学生活だった。


卒業後、地元に戻って保健所に就職したが、早々に静岡市の病院に転職する。最初の職場を定年まで勤め上げるのが当たり前だった時代に、公務員という安定した地位を捨てて縁もゆかりもない土地に体一つで飛び出していった大胆さは、私の持つ父のイメージからかけ離れている。


父が働き始めた70年代初めから日本経済は安定成長期に突入していき、その追い風に乗って順調に出世することになる。充実した大学での時間と、職場での成功体験が父の教育やキャリアについての考え方のベースになっていったのだと思う。


私が進路について考え始めた高校の頃から父とはよく衝突した。音楽の道を志し所謂「普通」の人生を歩む事を拒んだ私と、「普通」の道を堅実に歩む事を望んだ父。30歳を過ぎるまで父と自分は全く違う人種であり理解し合えないと思い込んでいた。


母は終戦直後に静岡市内の下町に生まれた。祖父はバスの運転手。祖父と祖母、姉が二人、下に弟と妹が一人ずつの五人兄弟の七人家族で育つ。母は三女なのに戸籍上は「長女」になっていたというのが戦後の混乱を物語るエピソードだ。


勉強も運動も頑張っていた母だが時代背景もあり大学進学は叶わなかった。高校卒業と同時に就職した病院で父と出会う。結婚後、二人の姉を出産、子育てしながら勤務を続けた。そして、私の誕生を機に母は病院を辞めて手芸洋品店を開業する。物心ついた時には母は店のカウンターに座っていたのでその状況を当たり前に思っていたが、大人になりこの母の開業に踏み切った大胆な決断には改めて驚いた。


その後、我が家は少し離れた農村に引っ越すことになり母は大切な店を畳む。街中で親戚や友人に囲まれて育ち、好きな時に何処にでも行けるのが当たり前だった母にとって、知り合いもおらず、車がなければ何処にも行けない生活はまるで翼を奪われた様なものだったのだろう。子供達に対して「どの様な状況下でも、そしてどの様な場所でもしたたかに生き抜く人間になって欲しい」と母が強く思ったのは、この田舎に移った時の変化の大きさによるものかもしれない。


父とは対照的に母とはじっくり話をしてきた。人生で一番長く会話をした人であり、最も影響を受けた人だ。母は常に自身のことを「頑固な人間」だと言う。その側面もあるにはあるが、私から見るととても柔軟な考え方をあわせ持っている人だ。


ある意味レールの上を順調に進んできた父と、自らの人生を切り開いていった母。この二人から影響を受けて私という性格が徐々に作られていく事になる。







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